日本の名作を読む 第12講 1 連歌と俳諧(N)

簡単なまとめ

この動画では、連歌と俳諧という日本の伝統的な韻文形式について解説します。特に、俳諧の歴史における松永貞徳の重要性に焦点を当て、彼の生涯と業績を通じて、俳諧がどのように庶民の文化として発展していったのかを説明します。

  • 連歌と俳諧の基本知識
  • 俳諧の歴史と松永貞徳の役割
  • 貞徳の生涯と人物像

連歌と俳諧の基本

連歌は「連ねる歌」と書き、5・7・5に7・7を連ねていく形式です。室町時代に盛んになり、一定の句数を連ねたものを指します。一方、俳諧は江戸時代にジャンルとして確立され、古今集の時代から存在していましたが、松永貞徳によって文学ジャンルとして規定されました。連歌は雅の世界を詠むのに対し、俳諧は俗の世界を詠むという違いがあります。

俳諧の歴史

俳諧の歴史は古今集の時代から始まり、室町時代には荒木田守武や山崎宗鑑といった俳諧の祖が登場しました。江戸時代には松永貞徳が貞門という流派を確立し、その後、西山宗因、松尾芭蕉へと続きます。芭蕉は蕉風を樹立し、与謝蕪村、小林一茶を経て、明治時代に正岡子規が俳句という言葉を使い始めました。江戸時代までは俳諧の連歌という形式が一般的で、発句(最初の5・7・5の句)が俳句と呼ばれるようになりました。

松永貞徳とは

松永貞徳は、現在私たちが楽しんでいる俳句の文化を築いた重要な人物です。彼の肖像画を通じて、その人物像を探ります。実相寺所蔵の肖像画は没後に描かれたものですが、生前から自身の肖像画を制作させていたため、実像に近いと考えられます。子供の髪型をしているのは、64歳で生まれ変わったと宣言し、1歳から数え始めたためです。蓮の葉の棒は俳諧の会で使用し、虎の皮の敷物は柿本人麻呂を意識したもので、歌の聖人としての自身を表現しています。

松永貞徳の生涯

松永貞徳は1571年に京都で生まれ、幼名を小熊と言いました。父は連歌師であり、和歌や連歌、古典、漢詩文など様々な教養を身につけました。3歳の時に足利義昭が織田信長に追放されるという時代を経験し、12歳で源氏物語の秘伝を授けられました。17歳で豊臣秀吉の祐筆となり、激動の時代を割と中心に近いところで見ていました。細川幽斎に師事し和歌を学び、33歳で林羅山と共に古典の公開講義を始め、知識の公開に努めました。40代後半から俳諧師として名が知られるようになり、59歳で俳諧の会を開き、63歳で門人たちが『犬子集』を刊行しました。64歳で生まれ変わったと宣言し、長頭丸と名乗り、門人たちからは花咲の翁と呼ばれ、83歳で亡くなりました。

どんな YouTube 動画も数秒で要約

無料の Summ アプリなら、どんな動画でもこのような要約をあなたの言語で作成できます。

App Store からダウンロード
Google Play で手に入れよう

文字起こし

「日本の名作を読む 第12講 1 連歌と俳諧(N)」の文字起こし全文です。タイムスタンプをクリックすると、その場面から動画を再生できます。別の動画なら YouTube 文字起こしツールをご利用ください。

0:00 はい、こんにちは 今日は連歌と俳諧ということで また今までと全然違うジャンルのことをやっていきたいと思います 連歌と俳諧というのはもう あんまり聞いたことがないという人が多いと思うんですけれども 一つの韻文の形式ということで、これも非常に伝統的なものですので 今日はその魅力というのを押さえていきたいという風に思います まず、基本知識ですけれども「連歌」というのが何かと言うと 「連ねる歌」という風に書いていますよね 連ねていくんですね 5・7・5に7・7を連ねていくというのが基本の考え方になります

0:45 5・7・5という風に誰かが詠んで その後また別の人が7・7を付けていく その後また5・7・5・7・7、5・7・5という風に ずっと繰り返して連ねていくんですね それで、100句とか36句とか50句とかいう一定の句数を連ねたものと それが連歌・連句という風に申しております この連歌というものはいつからと言いますと、そもそもはですね 一緒にやりましたよね、『古事記』の時に 「あなにやし」というイザナギとイザナミのやり取りをやりましたよね あの時に、これが連歌の起源だ、はじめだという風に

1:31 室町時代の連歌師が言っているよ ということをご紹介したと思うんですけれども そういう意味でいうとですね その『古事記』の時代からその連歌というのはあった訳なんですけれども それが盛んに行なわれるようになって ある程度のルールとか約束事みたいなものが決まっていったというのが 大体、室町時代ぐらいなんですね 連歌というものは室町時代以降 ですから大まかな時代区分は中世ということになりますよね 中世に盛んに行なわれるようになりました それで、俳諧の方はですね 俳諧の方はこれは江戸時代にジャンルとして規定されるようになりました

2:20 そもそも俳諧というのは後で申しますけれども、俳諧の連歌そのものですね 俳諧の和歌とか俳諧の連歌という、俳諧というものそのものは もう古今集の時代から『古今和歌集』の中にね 春の歌、夏の歌、秋の歌という四季の歌とか、恋の歌とか旅の歌とかね そういう色々な和歌のテーマがありますよね そのテーマの一つとして 俳諧歌というのがもう既に古今集の中にもあるので そういう俳諧という詠み方というのはもっと古くからあるんですけれども これをジャンルとして規定して、文学ジャンルとして きちんと定めてこういうものが俳諧ですよという風に、決まりと言いますか

3:07 そういうのをきちんと制定された、規定されるようになったのが 江戸時代からなんですね それでこの規定するということをちゃんとやったのが、今日取り上げる 松永貞徳という人になります だから俳諧というものは、近世から盛んに、きっちりと固められたと いうことになる訳です 今、連歌と俳諧という風に言ってきましたけれども 連歌と俳諧は何が違うのかというと、大まかに、端的にその特徴を言うと 連歌というのはこれは「雅の世界を詠む」ということなんですね それに対して俳諧というのは「俗の世界を詠む」という そういう風に、大きく分けると性質は区分することができます

3:56 今日は特にですね、連歌もやりますけれども その後のこの俳諧の方を中心に見ていきたいと思っているんですね それで俳諧の歴史というのはここに挙げましたけれども 皆さんは俳諧と言ったら、この松尾芭蕉はよく知っていると思うんですね 正岡子規ぐらいは知っているかな こういう人はよく知っていると思うんですけれども 江戸時代の俳諧というのは、もちろんそれだけではなくて 芭蕉以前からの流れというのがあるんですよね そもそも、その俳諧というものが行なわれるようになってきたというのは 古今集の時代からあるんですけれども そういう俳諧師という形で ポンと突き抜けた人が出てきたのは室町時代な訳ですね

4:43 室町時代に荒木田守武、山崎宗鑑というこの人達 「あらきだもりたけ」という人、「やまざきそうかん」という人ですね このお二人が俳諧の祖という風に言われています 元祖ということですね 俳諧の元祖として、この荒木田守武と山崎宗鑑というのは 俳諧の歴史においてはもう欠かせない人になるんですね その後、江戸時代に松永貞徳という人が出てきて、この人が貞門というね

5:32 俳諧の流派というものを巻き起こすんですね 今日はこの松永貞徳という人について見ていきたいと後で思っています ちょっと流れを押さえておきますね、先に その後、貞徳が出てきた後に、西山宗因という人が出てきます この人が談林と呼ばれる、また、俳諧の詠み方を作る訳ですね そしてその後、松尾芭蕉が出てくる 松尾芭蕉が蕉風というものを樹立するんですね 今の私達は、この芭蕉の俳諧というのはよく知っているけれども 「古池や蛙飛びこむ水の音」とか、奥の細道に行った人とかね 学校でも学びますけれども 松尾芭蕉が突然ポッと出てきた訳ではなくて

6:20 芭蕉さんが出てくるまでにはこういった流れがある訳ですね 歴史がある訳です それで、それぞれやっぱり流行というものがある訳ですね 音楽なんかでも流行というのはどんどん変わっていきますでしょう それと同じように俳句の詠み方というものも 時代と共に、時期と共に変化がある訳ですね 江戸時代に入ってからは、貞徳風の詠み方、宗因風の詠み方 そういうものを踏まえた上で、また新しい芭蕉風の詠み方というものを 芭蕉さんは作り出したということなんですね それで芭蕉の後、主要人物だけ挙げておきますけれども 与謝蕪村という人が出てきますね

7:08 江戸の中期ぐらいに、蕪村という人が出てきて その後、小林一茶が出てきます そして明治になって、正岡子規が出てくる訳ですね それでですね 江戸時代までは、これは俳諧という用語を使っていますけれども 俳句と私達は今言っているけれども 俳句という呼び方をし出すのは、これは明治からなんですね それまでは俳諧という呼び方をしていました もっと言うとこれは俳諧の連歌という、正式には呼び方をしていたんですね

8:00 だから連歌の中の俳諧的なものということですね 連歌というのは、雅な歌の世界でしたよね その連歌の中でも俗なことを連ねていく 歌と言うか、句と言いますか、作品ですね それを俳諧の連歌という風に呼んでいたんですね ですから、江戸時代の俳諧というのは、今、私達は 「古池や蛙飛びこむ水の音」という 5・7・5が俳句とすぐ、それを思いますけれども 基本的には連ねる歌の方もよくやっていたんですね、連歌というやつですね 俳諧の連歌というのもよくやっていました だから、5・7・5、7・7、5・7・5、7・7…という風に

8:48 こういう風に100句とか50句とか36句連ねていくという これが俳諧の連歌ですね 俳諧という俗なものを連歌 連ねる形で詠んでいくという俳諧の連歌というものですね だから、こういうものを芭蕉さんとかもよくやっていたんですね その中でこの一番最初の句、これが5・7・5ですね これだけ詠むということもある訳です、それでこれだけは 俳句という言葉がまだない江戸時代は何て言っていたかというと これを発句という風に呼んでいたんですね この発というのは出発の「発」でしょう

9:34 だから一番出発の句ということで 発する句、発句という風に呼んでいたんですね その発句のことを明治時代からは 俳句という風に呼ぶようになったということなんですね この俳句という呼び方は 一般的には正岡子規が言い出したんだという風に言われていますけれども 一般的にはそのように言われています というのがざっくりとした俳諧の歴史になります、今日は 俳諧のことを勉強するというと大抵芭蕉さんのことをやるんですけれども 実はこの芭蕉も凄いんだけれども この松永貞徳という人も凄いんだよということを私は言いたいんですね

10:21 今、私達が普通にテレビ番組で 芸能人とかも俳句に挑戦したりしていますよね 俳句は、誰でもできるどこでもできる 何の道具もなくてもできるというね そういう庶民のカルチャーですよね 一種の文化カルチャーという風になっていますよね そうなった元々を作ったのは、芭蕉も功績が大きいけれども 実はこの貞徳さんという人が凄くて この人のおかげで、皆が 今俳句を楽しめているという状況になっているんだよ ということを私はちょっと言いたいんですね この貞徳という人はとても面白い人ですので この人のことをちょっとご紹介したいなと そしてこの室町までの俳諧、あるいは連歌の雅というものと

11:10 近世的な俗というものはどういう風に違うのかということですね そのことを一緒に見てみたいという風に思います さあ、ちょっとマニアックな時間になりますけれども 今日はちょっと人物にポイントを当てて 文学というものを考えてみたいと思うんですね 皆さん知らないですよね 「貞徳ってどんな人?」と思いますよね 「誰なん?」ということなんですけれども まず貞徳ってどんな人かという、ちょっと肖像画から見てみましょう この方が貞徳さんなんですよ、いいお顔をしてはるでしょう? なんかほっこりしますよね、眺めているだけで それでちょっと色々皆さんは何か 気になるところがあると思うんですけれども

11:58 まずこれはどういう肖像画かというところから押さえていきましょうね これは実相寺というところがお持ちになっておられる 貞徳の肖像画なんですね この実相寺というところは、貞徳のお墓があるところなんですね だから非常に貞徳にゆかりのあるお寺が所蔵している貞徳像なんですね この肖像画自体は、没後に描かれたものです 今皆さんにお見せしているのは

12:44 貞徳の没後に描かれたものなんですけれども 貞徳自身が、生きているうちから自分の肖像画というものを 作らせていたんですね、貞徳は生前から肖像を制作させていました なので、そういった生前に作られた肖像画なんかをモデルにして あるいはそれを写したりして作るという風にして 没後も作っていっただろうということが想像される訳ですね

13:33 ですから貞徳さんの実像に近い肖像だという風に 考えることができると思います それで、これはもう貞徳さんが年を取ってからの肖像画になるんですよね ぱっと見ておじいちゃんの姿ですよね ですから、年を取ってからの姿を伝えているんだな ということが分かると思います 色々気になると思いますがまずちょっとお顔をよく見ておきましょうね いいお顔をしてはりますよね、何か本当に 見ている私達もほっこりするような和やかな顔をしておられます それでまず何から言ったらいいかなと思うんですけれども ヘアスタイルを見てみましょう 頭の上にちょっと髷みたいに結っていますよね

14:22 この髪型は実は、これは子供がする髪型なんですね 何で子供さんが結うようなヘアスタイルに貞徳さんがしているのかというと 貞徳は面白い人で64歳になった時に もう自分の定められた寿命というのはもう生き切ったという風に思いはって 「もうこれから自分は生まれ変わる」という風に言って、64歳の時に 「これから僕は1歳だ」という風に64歳で生まれ変わった人なんですね

15:08 64歳の歳からまた1歳から勘定し始めた、ということなんですよ なのでこれは子供の姿をしている訳ですね、そういうちょっと面白い人です それで、手に持ってはるこのアイテムは何かというと よく見ると、これは蓮の葉っぱなんですね こういった蓮の葉っぱの棒、支持棒みたいなものですね 何かこの蓮を持っているというのはいいでしょう 極楽浄土を思わせるような絵ですけれども こういった蓮の葉がついた棒、これを俳諧を教える時なんかは

15:54 どういう風に使ったのかはちょっと具体は分かりませんけれども 俳諧の会にはこういう棒を持っていっていたという記録があるんですね なので、そういうお姿を描いておられるということです だから、これはもう子供に戻っている貞徳さんということで ちょっと子供らしいこの無邪気さというんでしょうか そういうものがもしかしたら表情にも表れているのかもしれませんね さあそして、この敷物ですね これは関西人は好きなトラ柄ですけれども そういうことではなくて、これもちょっと意味があってね この虎の皮の敷物に座るというのは、実はモデルがあるんですね これは虎の皮に座っている柿本人麻呂像という

16:42 人麻呂が虎の皮に座っている、という肖像画が描かれていたんですね その人麻呂像を意識して 自分も虎の皮の上に座っているという姿が描かれている訳ですね 柿本人麻呂というのは、もう歌の聖人、歌の神みたいな人でしょう ですから、貞徳というのは、俳諧で非常に大きな功績を 後でやりますけれどね

17:27 立てた人という、とても俳諧の聖、聖人的なポジションにある訳ですね なのでこういう敷物の上に座るというので お姿が描かれているということなんですね さあ、こういう肖像画からしてもちょっと面白いですね 色々面白いユニークな方なんですけれども その生涯というのは本当に激動のドラマチックな人生で 私はもう、貞徳で大河ドラマを作ってくれないかなと思うぐらいですね とてもドラマチックな生涯を生きているんですね 1571年のお生まれ、1653年にお亡くなりになった人です 1歳の時は、京都で生まれた人なんですけれども

18:13 幼名ですね、小さい時のお名前は小熊(しょうゆう)ですね 音読みして小熊という風に名前が付けられていました ちょっと成長してからは「小」の字をですね 同じ音読みの別の字に変えて、勝熊でこれでしょうゆうという風に 読んでいた訳ですね それでお父さんは連歌師ですね だから、そういう連歌の教え、連歌師のお父さんのもとですね 和歌とか連歌とか古典とか、漢詩文とか 色々な本当に教育・教養というものを身に付けていたんですね ちょっとエピソードですけれども

18:58 この「熊」というのがお名前に付いていますでしょう これは何で付いているかというと 貞徳は3人兄弟なんですけれども お兄ちゃんの名前にも熊が付いているんですね こんなのは別にメモをしなくていいんですけれども お兄ちゃんが「熊寿」何て読むんでしょうね? ちょっと読みが分かりませんけれども その弟が「乙熊(おとくま)」かな?という風に読みまして 兄弟皆「熊」という字が名前に付いているんですね これはなぜかと申しますと このお母さんが、お兄ちゃんをお腹に身ごもった時に 夢で、何か熊の夢を見たらしいんですね

19:44 そして、安産で元気な、無事に丈夫な子供が生まれたということで 「あ、熊の夢っていい何かお告げだったんだわ」ということで 子供に「熊」を付けたと それにあやかって兄弟みんな熊を付けたということらしいんですね そんな名前の由来を持っている貞徳さんなんですけれども それは置いておいて、3歳の時にですね 足利義昭が織田信長に京から追放されるということが起こるんですね 足利義昭、これは京都の、室町時代を築き上げた足利氏ですよね 室町将軍というものが信長によって京から追放、ということで 一応これで室町時代が終わっていくということになる訳ですね

20:34 それで、信長が京にもやってくるということで 幼い小熊さんもですね 京の中心から郊外に逃げるというようなね そういう体験をしているんですね ですから、もう幼い時に一つの時代が変わる、時代が終わるということを もう体で経験している訳ですね それで戦火の中逃げるというようなことを経験している訳です 一方でですね お父さんの教えによって、色々な学問の先生について、学問を学ぶと 非常に聡明な子供で、12歳の時に源氏物語の秘伝を授けられるということで 非常に頭が良かったということが分かりますね

21:24 それでこの年に、本能寺の変も起こっているんですね という大変な時代を貞徳は生きている人なんです 一方で、連歌においては里村紹巴という、これは一流の連歌師です 当時、一流の連歌師に連歌というものを直接指導を受けています そういう風に貞徳の周りには 一級の指導者、当時の一級の人達と付き合いがあったんですね 教えを受けていたんです そういうこともあって、17歳の時に豊臣秀吉の祐筆になったんですね

22:11 そういうのは大体これぐらいの年の頃かという風に言われています 筆記役、書記役ということですね それになっているということですから そういう激動の、色々な時代の変転ですよね そういうものの割と中心に近いところに 貞徳はいた人物ということになる訳ですね 室町時代は終わって、そして信長が出てきて、秀吉が出てきて そして徳川の時代になって、という それを割と中心に近いところで見ていた、経験していた その時代の息吹というものを吸っていた人物、ということになるんです

22:56 その時に、それからですね 連歌は10代の時にやっていたんですけれども ちょっとあんまり熱心に、その後ずっと続けるということではなく 和歌の方に、貞徳は夢中になっていきます それには、この細川幽斎との出会いというものが大きかったようですね 細川幽斎という人は 名前を歴史が好きな人は聞いたことがある人が多いと思います 武将の歌人、和歌をやっている武将歌人として 非常に名の知れた人ですけれども、この人に付いてですね 和歌というものを熱心に学ぶんですね ですから、貞徳という人は、最初はね やっぱり雅な文学をしっかり学んでいる

23:45 土台を作っているという人物になるんです それで、貞徳がどうして細川幽斎に師事するようになったかと言いますと それはお父さんのネットワーク、人脈ということもありますし 和歌というのも、もちろん学ばなくてはいけない 教養ではあったんですけれども それ以上に、貞徳自身が語っていることによると この細川幽斎の人柄、人物というものに非常に惹かれたようなんですね 細川幽斎という人もですね 言うてみれば、信長について、そして秀吉について、という風に 誰に付くかという判断を誤るともう

24:32 この時代は生きておれない時代じゃないですか、その中でですね 信長から秀吉、そして家康の時代まで生き抜いている人物なんですね うまく世渡りをしている人物なんですよ そういう時代を読み取る優れた才覚と言うんでしょうか そういうものを持っている人だという そこにも貞徳はとても惹かれるところがあったみたいですね そういうことで幽斎に、和歌を10代の終わり頃に学んでいた訳です 30歳の時に関ヶ原の合戦が起こりましてね 徳川家康が力を得るということになっていく訳です

25:21 徳川の時代というものがね 大坂冬の陣・夏の陣も44・45歳の時にありまして 徳川体制という風になっていく訳ですね この頃に貞徳はまだ俳諧師として名が知れているという訳ではないんですね 貞徳は33歳の時にですね 林羅山という、これも当時一流の学者なんですけれども と一緒に古典の公開講義というものを始めます この頃、息子と一緒に塾を開くんですね 私塾を開くということで、自分が学んできたことを 自分だけとか、あるいは自分の弟子だけに伝えるということではなくて もっと一般に広く公開していこうという

26:10 知識の公開ということを積極的に行なった人なんですね これが非常に私は凄いなという風に思うところです この古典の公開講義では『徒然草』とかね『百人一首』ですね これを皆さん聞いてくださいという形で公開で講義をしたと それで塾も作って皆が学べるという環境を整えたという人なんですね そういう風に、今までは言ってみればお公家さんとかですね あるいは上流の人とかですね そういうある特定の階級に限られて、限定されていた教養ですね

26:56 古典の教養とか知識というものを、広く、皆に広げようと そういう意識を持っている人物だったんですね そういうことを積極的に行なっていました それで俳諧において名が知れだすのは大体40代の終わりぐらいから という風に言われています ですから、今俳諧史においては、貞徳はもう欠かせない人ですけれども 実際は、始めたのは40代を越えてからということですから 遅くから俳諧の方で名が知れるようになってきたということなんですね 59歳の時に妙満寺という京都のお寺で俳諧の会を行ないます 50歳ぐらいから俳諧というところで

27:44 「あ、貞徳さん俳諧上手いですね」みたいになってきたんですね 63歳の時、門人達が貞徳流の俳諧の本という「えのこしゅう」と読みます 『犬子集』という本を刊行と、それで64歳ですね 64歳の時、この年に生まれ変わったよと自分で言うてる訳ですね それでこの年から1歳、という風に年齢を数え始めました その頃、お名前も変えまして 長頭丸という風に名乗るようになった「~丸」と何かこう 子供のような名前を名乗るようになったんですね 何で長頭丸か言うたら、文字の通りですけれども 頭が長かったから長頭丸という風に名付けたんじゃないか

28:31 みたいな風に言われています どうでしょうか頭が長いでしょうかね、どうでしょうかね という風に自分では名乗り始めました 一方、門人達ですね 貞門という一つの俳諧の流派がありましたから、門人達は 花咲の翁という風に呼んだそうですよ、花咲かじいさんですよね 花咲の翁という風に、門人達にそういう風に呼ばれるのは やっぱり人柄とか良かったんでしょうね 人々に愛される貞徳先生だったんだろうなという風に思います そして83歳で亡くなったという、こういう生涯を送った人なんですね

29:21 ですから、室町時代があって、信長、秀吉、家康という 本当にこの激動の時代を生きて、そして古典の公開ということに努めて そして晩年というものは、俳諧というものですね それをきちんとルールを作って、皆ができるようにしようという風に ルールを定めていったという、そういう人物なんですね この貞徳という人はですね、とても面白い人です この後、もっと作品を具体的に見ていきましょう

Share

その他の動画の要約